氏子蕪村が参拝した淀川神社-与謝蕪村ゆかりの地、大阪市、毛馬町、淀川神社(蕪村神社)


ご挨拶


与謝蕪村が奉納した氏神「淀川神社」

NPO法人近畿フォーラム21
理事長  池尻 一寛

驚くべきことがわかりました。何と蕪村が生誕地近郊にある氏神神社「淀川神社」に参拝していたということです。
まさか、大阪市毛馬町「蕪村公園」の南側、城北通りを挟んだすぐ前にある「淀川神社」に、
与謝蕪村が幼少の頃から参拝していたということなどは全く驚くべきことでした。
一度も考えたことはありませんでした。

この話に行きついたのは、誠に偶然なことでした。

氏子神社「淀川神社」に2年前就任された横路 良宮司が、地元淀川連合振興町会長のご紹介で、
蕪村顕彰俳句大学と蕪村生誕300年記念行事事業を進めている、
NPO法人主宰の私と懇談する機会が出来たことからです。

数回詳細協議を重ねていく内、「淀川神社」に氏子の与謝蕪村が生誕の時から、
幼少の時代も、父母の死に伴い家督は継げず苦悩した時も、
氏子神社に祈祷・参拝したことは間違いないという真説が浮上してきました。

蕪村が17・8歳の頃、江戸に出奔する時に、「安全祈願」のために、「氏子神社」に行ったことでしょう。
つまり蕪村(幼名:寅)と「神社」の関係は、江戸時代の厳しい風習の中で、
当然深い繋がりを持っていたものだったと思われます。

ところで、氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、
平安朝初期または、 それ以前に創立されています。
同神社は、当時から摂津国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

その摂津国東成郡で蕪村は生誕地したのです。

実は、この東成郡には、もうひとつ氏神様である「八幡神社」が在り、2つの氏子神社があったのです。
しかしこの「八幡神社」は、明治43年に「都島神社」と合祀したため、
結局 蕪村の氏子魂が、その当時から今も、継続維持しているのは、「淀川神社」に限られると云えます。

もっと詳しく記述しますと。江戸時代3大俳人の与謝蕪村は、
享保元年(1716年−生誕日は不明)に、この摂津国東成郡の長閑な友渕村で生まれました。

生家は、父は毛馬の庄屋で、問屋・宿屋も営む「北国屋吉兵衛」。
母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。
母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、
2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋・問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、
特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、
多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

しかし、北国屋吉兵衛の死去に伴い、蕪村生家は曲折の末滅び、蕪村も家督を継げず、
江戸に向けて出奔を余儀なくされたのです。

ここで、今や蕪村神社となった「淀川神社」横路宮司と話し合いが急転し出しました。

上記の蕪村顕彰の行事を、NPO法人近畿フォーラム21と「淀川神社」が「「共同」して、
蕪村顕彰と後世への伝承、それに名所旧跡への誘致活動を推進していくことを急遽合意したのです。
これが画期的なことでした。素晴らしいことでした。

そこで手始めの合同行事として、幅6p縦24.5pの「淀川神社絵馬」を作製します。
その絵馬表面に「蕪村の著名俳句と蕪村像」を載せます。

肝腎なことは、同絵馬の裏に、蕪村顕彰俳句大学受講生や一般俳句愛好家、公私立児童生徒等が、
自作の「俳句と祈りごと」を手書きすることです。
その「絵馬」は、27年のお正月から始め、神社境内の「絵馬掛け」に1年間奉納することになりました。

この他の行事として、平成28年の「蕪村生誕300年祭」に向けて
「神社のぼり」を作製し地元の毛馬町や友渕町に飾ります。
また境内に「蕪村生誕祭の石碑」を建立することも考えています。

締め括りになりましたが、「淀川神社」内の催事部屋を使って、「句会講座」を開講することも、
行事として地元の俳句愛好家の方にご協力頂くことも、すでに進めています。

更には、近郊の大東町の「蕪村商店街」とも足並みを揃えて、
「蕪村生誕三百年記念祭」に向けて蕪村顕彰諸行事を、
「私たちNPO法人」「淀川神社」と「共同」で押し進めて行くということになりました。
実に素晴らしいことです。

どうか、お正月に「淀川神社」参拝にお越しになり、
「絵巻」に献句して頂きますようお願いすると共に 「淀川神社」がこれから"蕪村神社"と云われるような
活動にご協力を賜ります様、お願いいたします。



淀川神社 | 大阪市都島区毛馬町1丁目2-11 TEL.06-6921-5980

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