氏子蕪村が参拝した淀川神社-与謝蕪村ゆかりの地、大阪市、毛馬町、淀川神社(蕪村神社)


与謝蕪村


与謝蕪村と生誕地都島毛馬

NPO近畿フォーラム21
理事長  池尻 一寛

「なの花や 月は東に 日は西に」
「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」などの俳句で知られている
与謝蕪村は江戸時代中期の1716年(享保元年、
八代将軍徳川吉宗が将軍についた年)、
大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村)に生まれた。
生まれ月日は不明である。


蕪村は生前自らの出身地についてほとんど語らなかった。
例外が「馬堤は毛馬塘也則(つつみなりすなわち)余が故園也(なり)。」の言葉である。
これは、1777年(安永六年)2月23日付、
伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙の中で
「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」を自解しながら、
自らの故郷のことを語った文言である。
これに続く手紙の文章は「余、幼童之時、
春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」というものである。


まことに平和で明るい幼年時の回想である。
時に蕪村62歳。
還暦を過ぎた老人の、懐旧の切なる心情というべきであろう。
蕪村の死後、高弟几董(きとう)が『から檜皮(ひば)』1784年(天明四年刊)に寄せた追悼文
「夜半翁終焉(しゅうえん)記」において蕪村の出身は、
その草稿では「村長の家」さらに「郷民の家」と書かれていたのが、
決定稿ではそれらの文字が削られて
「浪速江(なにわえ)あたりに生(おい)たちて」としか述べられていない。
几董(きとう)や柳女(りゅうじょ)などごく親しい人には語ったかもしれない自らの生い立ちを
多くの人に知られることは望まなかったかのようである。
さらに、大阪の俳人大江丸(旧国ともいう)がその著『俳諧袋(はいかいぶくろ)』のなかで
「生国摂津東成郡毛馬村の産」とかいている。
この著者は蕪村と親しく交際があった人物である。
大川と新淀川の分岐点、ここが蕪村のふるさとである。


蕪村は日本文化の歴史のなかでもまれにみる、
多面的な才能を発揮した人物として広く知られる。
俳人としては、松尾芭蕉・小林一茶とともに近世俳諧史を語るとき必ず名をあげられ、
画人としては、国宝「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」を合作した池大雅(いけのたいが)や、
同時代の円山応挙と並び称される巨匠である。
この俳諧と絵画の両道を橋渡しする重要文化財「奥の細道図屏風」に代表される、
俳画と呼ばれるジャンルを開拓したことも忘れてはならない業績である。
 

蕪村は17、8歳の頃に毛馬を出て江戸に下り、
早野巴人(はじん)に俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳の年に師宋阿(巴人)の死にあい、
その後江戸を去る。
宋阿門の親友砂岡雁宕(いさおかがんとう)に伴われて
その郷里下総(しもうさ)の結城(ゆうき)に足を止め、
(妙国寺境内に「北寿老仙をいたむ」の詩碑がある)、
やはり同門の中村風篁(ふうこう)を訪ねて下館に逗留もする。
 

さらに芭蕉の足跡をたどって東北、松島あたりも旅をする。
いわゆる関東、東北地方巡歴の旅の時代である。1751年(宝暦元年)、蕪村36歳の年の秋、
十年近い放浪生活を切り上げて京都に上り、しばらく都に居を構える。
京に上った蕪村にとって見るもの全てが興味深く、京巡りをこのうえなく楽しんだようである。


しかし同時に画家蕪村にとってこの時期は非常に重要な学習期であったと思われる。
京の古社寺にはさまざまな障壁画が所有され、
又、中国や日本の古典絵画が豊富に保存されている。
京の各寺院ではこうした宝物を公開する機会も多く、
本格的な絵画作品に触れ、作品から直に学習する機会を得た時期でもあった。


1754年(宝暦四年)蕪村は丹後へ赴き、同7年まで滞在する。
母親の出身地が丹後与謝地方(現 京都府与謝郡加悦(かや)町)であったためとも言われるが
「夏河を 越すうれしさよ 手に草履(ぞうり)」の句とともに、
このころの蕪村の絵画制作活動は彼の絵画芸術全体を考える上でも大変重要な時期に当たり、
「方士求不死薬図屏風(ほうしぐふしやくずびょうぶ)」(施薬寺(せやくじ))の
充実した大作を描くようになった。


1757年(宝暦七年)42歳の9月、蕪村は丹後を去って京に帰る。
45歳の頃には結婚、そして娘くのの誕生を経てしばらく京都に留まるが、
1766年(明和三年)51歳の秋から四国の讃岐へと旅立ち、
明和5年53歳の夏まで何度か讃岐と京を往復したりしている。
現在、丸亀市の妙法寺(みょうほうじ)に蕪村画「蘇鉄図(そてつず)」屏風が所蔵されており、
琴平町には「象の眼の 笑ひかけたり 山桜」の句碑がある。
そして55歳の年には夜半亭二世(初代 巴人)を継ぎ、俳諧においても、
絵画の世界においても大成期に入って行くのである。


1783年(天明三年)12月25日未明、永眠。享年68歳。
「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」の辞世句を残し、
新春の白梅を心に抱きつつ死んでいった。
蕪村の墓は、芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある。
 

毛馬閘門近くの淀川堤防上に、
「蕪村の句碑と生誕地」の碑がある。
句碑には有名な「春風馬堤曲」の中の『春風や 堤長うして 家遠し』の句が、
蕪村の自筆を拡大して刻まれている。

かつてこの句を刻んだ小さな碑が近くに建てられていたが、
淀川改修工事で一時的に取り除かざるを得なくなった。
淀川改修百周年記念事業の一つとして、
句碑の復活が取り上げられ、地元では有志による蕪村顕彰碑保存会が結成され、
建設省(当時)・大阪府・大阪市に働きかけ、この四者の協力により昭和53年2月、
現在の堂々とした立派な句碑が建立されたのである。

初代の句碑は昭和28年にやはり地元の有志によって設置されていたもので、
今は国土交通省毛馬出張所敷地内の桜の木の下にひっそりと置かれている。
生誕地の碑は昭和54年3月大阪市が建てている。
<区民にチラシで配布>

(冊子「蕪村と都島」都島区役所制作より一部抜粋)



与謝蕪村顕彰を高めていく

毛馬一三


江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、
享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。
生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。


しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。


むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。


蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出し、江戸に下っている。
なぜ江戸に下ったのか。 これすら未だはっきりしない。
しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、
実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。


おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、
庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、
周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、
意を決して毛馬村を飛び出したのではないか。


しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。
だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事しに訪ね、俳諧を学ぶことができたのか、
田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、
これもミステリーだらけだ。
この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、巴人師が没したあと江戸から脱し、
下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、
松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。


その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、
初めて「蕪村」と号したのである。


その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。
45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、
以後、京都で生涯を過ごした。
明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。


京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、
天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、
頻繁に大阪に吟行のためやって来ていたことが、最近分かってきた。


船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村から2キロほご離れた西側の淀屋橋や源八橋からだ。
ここには「検問所」があったためで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。
源八橋付近は「梅」の木の囲まれていたという。


蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、
大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、
西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。
つまり大阪市内の各地を回っている。   


特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで、
大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。
逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、
京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。
(大阪市立大学文学部)


早い話、蕪村にとり大阪も活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。


こんな折、驚くご縁と嬉しい話が飛び込んできた。


蕪村生誕地近郊に大阪市が5年前造営した「蕪村公園」の横に、 「淀川神社」がある。
しかも、大川(旧淀川)の前にある神社はここだけだ。
私自身も拝礼しに行く神社はここだ。


ところが、地元の町内会長のご紹介で、「淀川神社の宮司」と会うことが出来た。
宮司とは初めての対面だったが、宮司の実に素晴らしいご意向を聴かされた。


2年後の「蕪村生誕300年祭」行事を神社でも行いたいし、
神社でも「俳句会」を行いたい。蕪村顕彰を後世の為に諸活動を進めて行きたい、
などの強いご意向だった。


「蕪村顕彰」事業を既にすすめているNPO法人近畿フォーラム21で、
私が活動していることを町内会長から聴かされたので、
いち早く会いたかったと告げられた。
このご縁とは、実に素晴らしいものだった。


しかも「蕪村顕彰」を後世継承したい私の考えと全く一致し、
地元の神社が蕪村顕彰の発信地となり、
これから神社で「蕪村顕彰」祝事をして頂くとは、まさに“快挙”と言えよう。


しかも、蕪村が大阪に吟行に来ながら、一度も実家に寄らなかったわけがあっただけに、
この時代になって旧実家の近くにある、
ここ「淀川神社」で蕪村の望郷の念を繋いでやることは、
蕪村も大いに喜ぶだろう。


宮司の話に感動し、近く再会して活動の進め方を話あうことになった。
後世のために蕪村を顕彰し、俳句文化振興活動をしようという当NPO法人の試みは、
立ち上げてから4年が経って画期的な話が舞い込んできたことになる。


大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた与謝蕪村を、
この地元「淀川神社」から全国、初外国に広めて行こう。



淀川神社 | 大阪市都島区毛馬町1丁目2-11 TEL.06-6921-5980

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