氏子蕪村が参拝した淀川神社-与謝蕪村ゆかりの地、大阪市、毛馬町、淀川神社(蕪村神社)


お知らせ


「与謝蕪村銅像」の建立除幕式 終わる(2016.1.23)
毛馬 一三
今年2016年の「蕪村生誕300年記念行事の年」が始まりました。その手始めとして大阪毛馬町の氏神神社「淀川神社境内」に、建立した「与謝蕪村銅像」の除幕式を、1月23日(土)午後1時から、同神社境内で行いました。



「蕪村銅像」の建立は、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21と、大阪毛馬町に奈良時代以前からある「氏子淀川神社」と共同して、大阪俳人与謝蕪村顕彰と、後世にその名を継承する為、蕪村愛好家や地元の人たちの賛同で得た上で成し遂げたものです。当日は、狭隘の境内に見学者ら100人近くが集まり、華々しい除幕式が行われました。


除幕式は、まず淀川神社の横路良宮司に修祓、玉串奉納、献饌を行った後、主催を代表して蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の村田正博委員長(市大文学部教授)、横路良宮司が祝辞を述べました。


この後来賓代表と主催者側が白布で包まれた「銅像」に付けけられた紐を双方から引きますと、高さ1m60pの勇壮な坐像銅像の姿が現れました。蕪村の表情は、喜びを綻ばせているようでした、


続いてご来賓等のご紹介が行われ、この中でウクライナから京都大学工学部の教授としてこの1年在籍されるガリーナさんが、「この銅像建立は日本俳句文化の向上に繋がり、諸外国も関心を高めるでしょう」と挨拶し、参加者の方々から大きな拍手が湧きました。

上記が「除幕式」の概略です。

では「どうして蕪村望郷毛馬の淀川神社に蕪村銅像を建立したのか」。そのことを改めて書き添えたいと思います。これから追々。

注目の「淀川神社」は、平安朝初期、またはそれ以前に、与謝蕪村生誕地の摂津国東成郡毛馬村字外島(現・毛馬町1−2−11)に氏子神社として創建されました。ですから毛馬村に住む氏子たちは、その時代の頃から常慣習として淀川神社に参詣していたのです。

実は淀川神社は、今の毛馬町に、当時のまま存在しています。これが銅像建立との重大なご縁が結びつくのです。

蕪村は享保元年(1716年)に、この摂津毛馬村で生まれました。蕪村生家は、父が毛馬の庄屋主で、問屋、宿屋も営む「北国屋吉兵衛」。母は丹後与謝の名家から奉公人として来た「げん」でした。その2人の間に、男のこの(幼名・寅―後の蕪村)として誕生したのです。しかし家系を継承出来る「実子」ではなく、私生児だったのです。勿論肝腎の蕪村の「生誕日」も、未だ不明です。

北国屋庄屋は「淀川神社」の氏子でしたから、氏子慣習で、蕪村の生誕後も仲のいい両親と共に、正月や節句、お祝い、悩み払いの時などに「淀川神社」を参拝していたと思われます。

ところが両親を亡くした蕪村は、北国屋庄屋の実子ではなく、正妻の子でもなかったために、庄屋継続が出来ない苦境に追い込まれ、幼少の頃から庄屋親族から様々な苦衷に見遭わされたと思われます。その都度、悲境回避や厄払いなどのお願いを、この「淀川神社」に参詣をしたと推測されます。


結局、苦境に耐えらない17・18歳の頃、実家庄屋は、享保時代のバブルに見舞われて大阪豪商に庄屋を買い取られた為実家庄屋は破滅。結局蕪村は、故郷毛馬を出奔し、江戸に下る決断をします。その際も、きっと氏子として「淀川神社」に生涯安泰の祈願をして参拝したに違いあません。

蕪村と「淀川神社」は、こんな深い因縁の存在が幾つも予想され、無縁では絶対無かったのでしょう。

この歴史的な因縁を考えて、NPO法人近畿フォーラム21では、「淀川神社」と協議を進め、協力関係を確立しました。画期的なことでした。そして「蕪村銅像」を同神社境内に、昨年の暮に建立したのです。


その記念行事を世間に広めるために、冒頭記載のように1月23日(土)午後1時から、「蕪村銅像を建立した淀川神社で、除幕式」を行ったのです。


これから、与謝蕪村が出奔後切望していた生誕毛馬村への「望郷の念」を、今時代に充してやるとともに、蕪村生誕地が大阪毛馬村であることを、今年の「蕪村生誕300年の年記念行事」の先発行事として始め、地元、全国、諸外国にこうした「銅像建立」の理由の祭事として広めて行きたい考えです。


「与謝蕪村銅像」の建立について(2015.12.21)
平成28年 蕪村生誕300年記念

NPO法人近畿フォーラム21主宰・蕪村顕彰俳句大学
蕪村生誕三百年記念事業実行委員会・淀川神社

建立除幕式


日時) 平成28年1月23日(土) 13時〜15時
    淀川神社 境内  
    大阪市都島区毛馬町 1−2−11
◆蕪村銅像を「大阪淀川神社」に建立
NPO法人近畿フォーラム21
理事長  池尻 一寛
平成28年1月から、いよいよ「蕪村生誕300年の年」。江戸時代三大俳人の与謝蕪村は、300年前の1716年享保元年に大阪毛馬村に生まれたことだけは、はっきりしていますが、肝腎の「生誕の日」は未だ不明です。

しかし2016年は上記の通り、「生誕年300年の年」を迎えることになります。

筆者が主宰するNPO法人近畿フォーラム21は、6年前から「大阪俳句文化振興を図る活動のひとつとして、蕪村生誕300年を顕彰する「講座・蕪村顕彰俳句大学(学長川原俊明・弁護士)」を立ち上げ、同講座開講を運営しつつ、兜カ學の森とも共同して、全国俳句大会も開催し、最優秀句の表彰式をおこなって来ました。

ところがどうしても困惑極めるのは、「蕪村生誕の日」が分からないことです。分からないことは、大阪毛馬町生誕の「生誕300年」の「御祭り」を、来年のいつの日に、如何なる行事をすすめたらいいかが直面する難問でした。

そこで、まず世間に広く知られている大阪淀川堤防上の「生誕記念碑」に匹敵する「蕪村銅像」を建てることが、効果的だとの考えにNPO法人理事会の意見が合致し、立案作業を進めてきました。

では、「蕪村銅像」を建てる場所をどこにするのかが最大の課題でした。「銅像建立」によって蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを、地元だけでなく、全国・諸外国の俳句愛好家にどしどし「銅像」を見に来て貰うための「最適地」は、一体何処がいいのだろうか、これに関して詳しい調査をすすめました。

そんな時に、「最適の建立場所の候補地」が上がったのです。驚嘆でした。これはこれから追々。

蕪村は、摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)の庄屋で生まれました。庄屋は近郊にある「八幡神社」と「淀川神社」の「氏子」でした。江戸時代は、ともかく生誕のお祝いや商売発展の祈願、生活安泰の祈願、悩みからの脱皮の祈願などに期を捉えて、氏子たちが「神社」に参詣していたことは、江戸時代の慣習であり、熱の籠った常習でした。

ですから「二つの氏子神社」に、与謝蕪村(寅)が、東成郡友渕村で育った幼少の頃、庄屋の「氏子」の父と母につれられて氏子参詣を続けていたであろうということが、地元毛馬町の情報として急速に浮かび上がって来たのです。

序でながら記しますと、もうひとつの「八幡神社」は、明治に近郊の「桜宮神社」と合祀し、姿を消しました。従って、現存する毛馬町の氏子神社は、「淀川神社」だけになっています。

と云うことは、蕪村が参拝したと称される氏子神社の実像は、今では「淀川神社」だけしか、残っていないということになります。

このことから筆者は、動きだしました。早速注目の「淀川神社」を訪ね、横路良宮司と神社の座敷で、同神社の歴史と蕪村参詣の歴史的風習を巡る話し合いを交わしたのです。

すると、横路良宮司は、神社は焼却の過去もあり「淀川神社への参詣書はないものの、江戸時代慣習から察すれば、蕪村氏子一家がここに参詣したことは間違いないことでしょう」と、意見が一致しました。

ですから、蕪村が幼少の頃、悩みに包まれた母と参詣に通ったのは想像に難くなく、生家相続に絡まされ悩みの果てた蕪村が、駆け込み参詣を行ったことも推測出来る経過を飛び出してきました。

更には、17・18歳の頃、生家「庄屋」を整理して江戸に下る決意を問い掛ける参詣も、当然氏子の立場で「淀川神社」に命懸けで詣でたこととは、当然のことだと断言できることも一致しました。

そこで筆者は決意しました。その場で横路良宮司に「淀川神社の境内」に「蕪村銅像」を建立させて頂けませんでしょうか。望郷の念に終生纏わり付かれた蕪村の心を迎い入れ、蕪村が参詣したのがここの「淀川神社」だと後世に伝承しましょうとお願いしました。

横路良宮司も話の進み具合を快く受けいれられ、実はこのあと「神社役員会」を開催されて、この問題を協議して頂いたのです。その結果的、何と「神社役員全会一致」で、境内への建立が決定されました。

神社に俳人の銅像が建立されるということは、画期的なことでした。

筆者は歓喜し、早速これを川原俊明学長と「蕪村生誕300年行事実行委員会・村田正博委員長(大阪市大文学部教授)」に報告した処て喜ばれ、勿論NPO法人理事全員も「蕪村銅像建立先」に感動しました。

本当に「淀川神社境内」に歴史的、かつ蕪村幼少時代の本人と父母の参詣心情を取り入れて、「建立」賛同にご努力された横路良宮司と「神社役員会の方々」に心から御礼を申し上げました。

これから本題。

NPO法人近畿フォーラム21と、淀川神社(大阪毛馬町)は事業協力して、大手建設会社に発注し、平成27年12月21日正午前から、神社境内で「蕪村銅像建立」工事を実施します。工事は、午後1時前には終わる予定です

そこで、出来上がる「蕪村銅像」の形は、下記の通りです。

・「蕪村銅像」自体の、高さは(地面より)1m60p。

・「蕪村銅像」正面は、台座石95pの上に、鉄製の「蕪村像本体」(土台付)65p。「銅像横幅」は、45p。
 
・「蕪村銅像」の正面高さ(台座付)は70p、銅像幅は(台座付)で45p。

・「銅像」正面の台座の中には、「与謝蕪村銅像」、「故郷毛馬生誕300年記念」と記しています。
更にその下に多数の「建立協賛者名」が記されています


そしてこの「蕪村銅像」が完成したあと、来年平成28年からの「蕪村生誕300年の年」のスタートに合わせて28年1月23日(土)13時から、「蕪村銅像建立の除幕式」を「淀川神社」で開催します。

末尾になりましたが、蕪村銅像建立のため、地元・各界の方々から「賛助」にご協力を頂きましたことに心からお礼申し上げます。

どうか、「蕪村生誕300年の年」幕開けの来年1月23日午後1時には、「淀川神社」での蕪村銅像建立の除幕式を開催致しますので、是非「淀川神社」にお越し頂きます様、お願い致します。 以上


「淀川神社」との共同事業進み出す(2015.1.26)
NPO法人近畿フォーラム21主催
蕪村顕彰俳句大学
蕪村生誕300年記念行事委員会
 朝日新聞が昨年12月30日の紙面に、NPO法人近畿フォーラム21と「淀川神社」が共同で進めている活動について、「淀川神社:「蕪村故郷で一句いかが・生誕300年へ新年から献句」という記事で、「大阪版」に掲載しました。(「ご報告欄」に既報)

 この記事を読んだ読者や、地元の俳句愛好者の人たちが、元旦から「淀川神社」を参拝し出して「絵馬献句」奉納新活動が進み出して、話題が大きく広がりだしました。「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう!というキャッチフレーズも同様に広がり出したのです。

 新年1月も、1か月になろうとしているこれまでに、「淀川神社」には「絵馬に献句しよう」と、地元の人や、俳句講座を受講生、親に連れられて来た児童生徒らによって献句された「絵馬」は100枚余に達しています。

 「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう!との目標を掲げて、蕪村顕彰と蕪村俳句を後世と全国・世界へ広めながら、大阪遺産の未来へ伝承していく活動は、少しづつ進展して行くのに喜びを感じています。

 そんな折、1月26日産經新聞の21面に、「蕪村の氏神に俳句奉納」。
〜淀川神社、生誕300年前に:(「俳句絵巻」写真掲載)〜 という記事が掲載されました。下記に掲載します。

 <大阪で生まれた江戸時代の俳人、与謝蕪村(1716〜83年)の氏神を祭る淀川神社(大阪市都島区)が、元旦から俳句絵巻の奉納を始めた。

 来年の生誕300年前を前に。地元では蕪村を顕彰する機運が高まっており、同神社は今後、蕪村にちなんだ句会も予定している。

 蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)で誕生。その後、江戸や京都に移り住み、俳人、画家として活躍した。

 生誕地である毛馬村の氏神祭っていた神社は現在はないが、ご神体は合祀などを経て淀川神社に移されたという。

 絵馬は縦24.5a、横6a。表には蕪村の句「菜の花や 月は東に 日は西に」が書かれており、裏面に参拝者が自作の俳句と願い事を記す。

 俳句愛好家や家族連れが次々に献句しており、横路良宮司(40)は「蕪村も喜んで下さっていると思う。子供や若者が俳句に親しむきっかけになれば」と話している。>

 このように報道機関のご支援も頂き、蕪村顕彰と蕪村俳句を後世と全国・世界へ広めながら、大阪遺産の未来へ伝承していく活動を積極的に進めて行きたいと思っております。

 どうか、蕪村生誕300年記念行事をこれから頑張って始めます。皆様のご賛同を心からお待ちしております。


淀川神社の「絵馬献句」に人気(2015.1.5)
NPO法人近畿フォーラム21 主催
蕪村300年祭記念行事委員会
              毛馬 一三
大阪毛馬公園の側に在る「淀川神社」と、私たちNPO法人近畿フォーラム21が共同して、2016年に迫った蕪村生誕300年祭記念行事を進めて行くことに合意し、今年のお正月から神社に参拝された方に「絵巻」に「献句」して頂くことになりました。


「絵馬」は、幅6p縦24.5pで、表面には「蕪村の著名俳句と蕪村像」を載せ、裏面に、自作の「俳句と願いごと」を手書きするものです。「絵馬」は、神社境内の「絵馬掛け」に1年間吊ることになります。

幸運にも、今年の元旦3日間は好天に恵まれ、「淀川神社」境内には、立て板に
(既報)の「献句」推奨ポスターと朝日新聞の事前記事の拡大紙が貼られ、参拝者を驚かせて、「絵馬」に献句する方の姿が見受けられました。

共同行事は、順調に進み、「絵馬の吊り棒」に3日の間に何と40個の絵馬が架けられました。

その上、地元の俳句愛好会から10枚の「絵巻」を求められ、また高槻の俳句会からの求めに応じて10枚の「絵巻」を郵送したそうです。

また、蕪村生誕300年祭記念行事委員会の参加して居られる俳句会からも、近く挙って50人の同人が参拝され、「絵巻」に献句をする知らせが来ています。

大阪俳人与謝蕪村名と蕪村生誕地が毛馬町であることを、「淀川神社」を発信地として後世に継承することを行事の目的にしています。つまり、「淀川神社」を
「蕪村神社」として全国・海外に広めて行くことも推進して参ります。

この行事は、氏神様「淀川神社」が在る限り、永遠に続くことになります。
実に素晴らしいことだと思っております。

淀川神社」には、摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に江戸時代の享保元年(1716年−生誕日は不明)に生まれた、「淀川神社」の氏子の与謝蕪村が参拝していたことが、昨年暮に判明しました。

氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、平安朝初期または、それ以前に創立されています。同神社は、そのままの形で、当時から摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

蕪村の生家は、父は庄屋で、問屋、宿屋も営む北国屋吉兵衛。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋、問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

この北国屋吉兵衛の一家が、「淀川神社」に参拝したのは、上記の様に氏子でしたから間違いないことです。蕪村も生誕して両親に抱かれてお参りしたでしょうし、両親を亡くし実家運営苦衷の厄払いも、この「蕪村神社」に参拝したことは想像に難くは在りません。

17・18歳の時、江戸に出奔する時も、「安全祈願」のために「淀川神社」参詣に行ったことでしょう。

この記念行事を、「淀川神社」と私たちと共同して実行していけることの喜びを心から感じております。これから「淀川神社」が「蕪村神社」として名を広めて行くことにも大いに期待しております。

「絵巻」の「献句」は、正月だけでなく、1年間通して続き、来年からも引き続き行います。どうか毛馬橋の横の「蕪村公園」の前にある「淀川神社」に全国からもご参拝をして「献句」して頂きますようお願い致します。


朝日新聞に掲載されました。(2014.12.30)


淀川神社 | 大阪市都島区毛馬町1丁目2-11 TEL.06-6921-5980

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